寄生虫、問いと答え、ミックスサンド

梅田午前10時30分。

頭から離れない映像、このまえネットで見た動画。寄生虫。それはウマバエの幼虫だ。蚊を媒介としてその卵は人 間の皮下に埋め込まれ、孵化する。そ いつは体長数センチに成長し、ついには皮膚を食い破り、人間の腕や背中にポッカリと空いた穴から外界に頭をのぞかせる。幼虫を駆除する方法、それはそいつ が頭をのぞかせたスキを狙ってピンセットでつまみ、ゆっくりとひねり出す。グロテスク、だがやりかたは簡単だ。

ここ数日、パキシルを切らした僕の憂鬱ますますひどく、一日中寝床の中、悪夢で目を覚ませば息もできぬほどに号泣し、加えてひどい眩暈や手の痺れ、禁断症状めいたものにさいなまれていた。

心療内科に行き、処方箋をもらう。パキシルを手に入れた僕は行きつけの喫茶店に向かう。ホットコーヒーとミックスサンド。まずはグラスの水で薬を飲み干す。あとは効き目が訪れるのを待つしかない。

しかし水の量が足りない。食道の中ほどで錠剤が止まっているような感覚が消えない。見ると店内は満席、忙しく動き回る店員、モーニングセットの皿が無数に行きかい、だが僕のミックスサンドセットだけがこない。そうか、いまはまだモーニングの時間帯なのだ。注文を間違えた。

「答えのある問いならば心配することはない、答えは自ずと姿を現す。答えのない問いならばそもそも思い悩む必要もない」

どこかで聞いたチベットの格言。僕の憂鬱もあるいはこんなものなのかもしれない、場違いな注文をすれば、答えが運ばれてくるまで僕は延々と待ち続けるハメになる。

問いと答えはたいていセットになっている。受験生の悩みは受験に合格することで解消し、サラリーマンの悩みは出世することで解決する。単純明快。

「答えは自分で見つけるものだ」、聞き飽きたセリフ、でも結局のところ誰も彼も、答えは最初からわかってるくせに、ひとり芝居でイナイイナイバア、くりかえしているだけのように見える、つまるところありきたりな答えを「発見」しておわり。くだらない。

でも、答えのない問いにしばられている自分はどうすればいい?

いやいや、自分だけが高尚だと思うなかれ、他人から見れば僕だってくだらない質疑応答をひとりでくりかえしているように見えるにちがいない、きっとくだらない、そうだ、結局のところ他人の苦しみなんかわからない。

他 人の問いは常に自分に理解可能なものにすげかえられる。だからくだらなくみえる、同じ理由から、他人はどんな苦境でも楽々とそれを乗り越えてい くようにも見える。自分の苦しみを「正確」に他人に伝えたければ、非常に手の込んだ作業をしなければならない。それが「ゲージツ」だって?「文学」だっ て? 話を高尚化するくせはいいかげんやめろ。

ミックスサンドはまだ来ない。

ひょっとしたら僕はとんでもない注文をしてしまったのではなかろうか。「ヘイ! ステーキをミディアムで。あとグレービーソースのかかったマッシュドポテトとドクターペッパーね」。アメリカ気取りでそんな注文、したのかもしれない。ならば解答得られるはずもない。

悩み、そこにもし根深さがあるとすれば、問いを得た「世界」と答えを求めている「世界」が異なっている場合か。それに気がつかない場合はさらに深刻になる。あるいは社会に巣食う病魔も、不条理の感覚も、人間という知能体が背負った宿命もそこに起因する。

問いと答えがセットになった思考体系を「文化」と呼ぼう。

僕 の心に巣食う憂鬱、憂鬱という虫、そう僕はそれを寄生虫みたいに感じている、僕の体調や精神状態にかかわらずそいつは前触れもなくうごめき出 す。駆除方法は実は簡単なのかもしれない、でも「ここではないどこか」、「旅先」で寄生された場合は誰もその退治のしかたを知らない。自分でさえ。

店員、僕のテーブルをのぞき込み、ようやく気づく。テーブルには錠剤の抜け殻が散乱、まるでセミの抜け殻のようだな。

だんだん薬が効いてくる。さすが抗うつ剤、抗不安剤。でもそれが僕の寄生虫の特効薬なんかではないことは馬鹿らしいほどよくわかっている。「答え」が「問い」をつれてくることだってあるのだ。禁断症状がおさまっただけだ。

ホットコーヒーが来た。ミックスサンドも来た。

だが僕が喫茶店に来た意味はもはや消えている。薬を飲みたかっただけだ。

ミックスサンドには、別の誰かが頼んだモーニングのトーストのコゲ、こびりついていた。