映画『ハラキリヤサイ』 に「自分さがし」の可能性と限界をみる

いきつけバーのなじみの客からメールがきた。「この間のカラオケ楽しかったです」。こんな書き出しで唐突にはじまっている。そういえば先日、彼女を含む常連客らとカラオケに行った。彼女は東京から単身大阪にきていて、デザイン会社に勤めている。酔っ払いのたわごとにも大きくうなずきながら真剣に聞き入るふだんの彼女の姿は、デザイナーというよりもむしろ中学生の野球少年を連想させる。ところがその日の彼女はちがった。カラオケボックスに入ったとたんに酔いが回り出した。彼女は豹変した。人の歌に対して大げさに拍手喝采をし、途中でやめようものならなんで最後まで歌わないのだと食ってかかり、あげくは人の頭をペチペチとたたき出す始末である。

「あれは本当の私じゃないんです」。メールには弁解の言葉が連ねられていた。「人前で歌うことによって自分の本性がさらけ出されてしまうのが怖かったのです。だから私は反射的に、江戸っ子っぽいキャラクターを演じてしまったのです」云々。

しかし彼女は明らかに泥酔していたのである。泥酔しながらも心のどこかで冷静に江戸っ子キャラを演じ続けていたのだろうか。それでは彼女の言う「本当の私」とはいったいどんな姿をしているのだろう。彼女の表面上のあらゆる行為からも分断された「本当の私」。

藤崎淳の映画『ハラキリヤサイ』は自分さがしの映画である。そしてちまたに蔓延している「自分さがし」「本当の自分」などの幻想の幻想たるゆえんを提示した映画である。

『ハラキリヤサイ』に描かれる風景や人物は、どれをとっても一様につくりものに見える。これは監督の映像手法に拠るところが大きい。固定されたカメラ、真正面から切り取られた映像、まるで学芸会のセットのような錯覚をおぼえる風景の中でぎこちなく動き回る登場人物。いや、登場人物はそもそもほとんど動作らしき動作を見せず、永遠に続くかと思われる「間」と「間」にはさまれ、時折あやつり人形のようにカタンと動くだけだ。同じ手法は前作『ジャパニーズ・ヤンキー・ゴー・アメリカ』でも多用されていたが、そのときは小津安二郎作品に対するオマージュ以上の意図を感じることができなかった。ところが本作においては、単なる映像手法の域を超え、手法が映画のテーマそのものに肉迫し、なかば一体化しているようにすら感じられるのである。

『ハラキリヤサイ』を読み解くもうひとつの鍵は、作中で使用されている言葉にある。端的に現れているのは本作中にちりばめられたキャプションだ。タイトルの『ハラキリヤサイ』にはじまり、『白昼夢・ハラキリ・3秒』『覚醒・ハラキリ・50K/m』など。これは監督の詩作品にも共通して言えることだが、彼の言葉はおそらく「破壊」と「再編」、このくりかえしによって紡ぎ出されている。バタイユの用語で言うところの「過剰」と「蕩尽」の連鎖が生み出す蠕動運動。彼の言葉は、整然と編纂された辞典をバラバラに破り裂き、紙片をつなぎ合わせて新しく作り出したデタラメな文章のようだ。そして読み手は、往年のフォークシンガー・イルカの歌の「なごり雪も降るときを知り」というフレーズがある瞬間に「なごり雪も降るときお尻」というふうに聞こえ、いったんそう思い出すともはやそうとしか聞こえなくなってしまったときのような、脅迫めいた思いにとり憑かれるのである。

バタイユの名前が出たところで、まずはタイトル『ハラキリヤサイ』をバタイユ的に分析することから始めてみよう。『ヤサイ』は、社会の枠組みに縛られて生きる凡庸な人間のメタファーである。「ベジタブル」は植物人間の暗喩表現として使われるし、神戸の猟奇殺人犯・酒鬼薔薇聖斗も脅迫文の中で「さあゲームの始まりです。(中略)汚い野菜共には死の制裁を」と人間を『ヤサイ』にたとえている。そんな『ヤサイ』が『ハラキリ(腹切り)』をする。これは社会およびそこに束縛された自らを破壊し、本来あるべき姿へ戻ろうとするエロティシズムの表れに他ならない。そう、『ハラキリヤサイ』は、バタイユ的な意味おいてまさに「自分さがし」の映画なのである。

だが果たしてそれは可能か。

登場人物たちはグループを結成し、馬鹿げたゲームに明け暮れる。彼らにとってこうしたゲームは「自分さがし」をするための儀式的な意味合いを持っている。敗者には罰ゲームが課せられる。この罰ゲームは違法行為でなければならない。敗者に違法行為をおこなわせ、社会の枠組みをどれだけ壊すことができるかちょっとだけ試してみるのだ。バタイユは未開社会における儀式を、「俗」の世界を破壊して「聖」の世界を現出させる作用を持つものとして位置づけた。『ハラキリヤサイ』におけるゲームの敗者(罰ゲーム遂行者)という存在は、バタイユの言うところの儀式に必要不可欠な「生贄」という存在と、ここでも見事に対応している。

しかし「生贄」を捧げてみたところで、実際は何ひとつ変わりはしない。せいぜい新聞の三面記事になる程度である。違法行為は、社会の側から違法行為として位置づけられ、それもまた社会の一部として飲み込まれてしまうだけだ。こうした構造は法律のみならず、現代社会に生きる人間の行為全般にあてはまる。ゲームにはルールがある。そして何がルール違反なのかを定義づけているのも、やはりルールなのである。

だからゲームに参加する登場人物たちはいつもとまどった表情をしている。ゲームだろうと実生活だろうと状況は変わらない。まるで将棋の駒のようだ。限られたマス目の上を動くだけ。それはときには良手と言われ、ときには悪手と言われる。ルール違反だと指摘されることもある。でもすべてはマス目の上の出来事だ。将棋盤の外に飛び出すという選択肢は最初から我々には与えられていない。魔法の靴を履いたって空を飛べないのと同じだ。「でもひょっとしたらそこには自分の本当にあるべき姿が!?」。そんな儚い希望にとり憑かれてしまった彼らは、やはりマス目の上をいつまでたっても右往左往するだけである。

本作では映像手法とテーマとがなかば一体化していると先ほど述べたが、そう感じる理由もこのあたりにある。ハリボテかと見まがうほどにリアリティの欠けた風景。親の家出や飛び降りるシーンなど、判で押したように何度も使いまわされるモチーフ。その中をギクシャクと動く(動かされる)登場人物たちの姿は、見つめているうち、まるで有限の盤の上を行ったり来たりしている将棋の駒のように思えてくるのである。だが彼らはまだそのことに気づいていない。だから時々、狐につままれたような表情を浮かべる。「おかしいぞ、俺は本当はこっちに行きたいんだが……」。逆に、社会にどっぷり浸っているはずの課長が一番力強くいきいきしているのは非常に象徴的である。彼はまるで『マトリックス』の中の監視人・エージェントスミスのようだ。世界に対しちょっとでも疑いをもった人間を居酒屋へと連行し、一気飲みの刑に処する。

映画の後半にさしかかり、事態は一転する。グループは解散する。子供じみた万能感を捨てられない、先述の比喩に即していえば「将棋盤の外に飛び出したい」と夢想し続ける3人だけがあとに残る。ひとりは料理人になることを夢見、ひとりは会社に辞表を提出した。もうひとり、監督自ら演じる「木下さん」がどんな夢を追いかけているかは描かれていない。しかし、描かれていないというまさにそのことが示唆的である。彼は実は「木下さん」ではなく、映画で食っていくという「子供じみた」夢を追い続けてやまない藤崎監督そのものなのだ。

「会社辞めたって本当ですか」
「ええ」
「で、どうするんですか。芸術家にでもなりますか。タクシーの運転でもしますか。どれもいっしょでしょ」
「……やりますよ。僕は」
「僕も」

そして3人は、男性器を賭けたロシアンルーレットへと自らを陥れていく。これに解釈を加えるにあたっては、ラカンの精神分析学がじゅうぶんにその威力を発揮する。このロシアンルーレットは、それまでの(そしてそのあとの)ゲームとはベクトルの向きが正反対である。これは「俗」の世界を破壊するための儀式ではなく、「俗」の世界にとどまり続けるための儀式なのだ。

ラカンを用いるにあたり、彼の理論を簡単に説明しておいたほうがいいだろう。生まれたばかりの赤ん坊にとって世界は未分化のままである。母親と自分との区別もなく、何もかもすべて自分の思い通りになるという万能感に支配されている。そこへ第1の挫折がおこる。万能であるはずの母親にファルス(ペニス)がないという事実を突きつけられるのだ。衝撃を受けた子どもは自ら進んで母親のファルスになろうとするが、そこへ第2の挫折がおこる。父親という存在の登場によって、自分は母親と引き離されてしまう。この体験をラカンの用語で「去勢」という。世界の象徴としての母親と、ファルスたる自分とが切り離されてしまうという意味だ。これを契機に子どもは、喪失感を埋める手段としての言語を身につけ、大人への道を歩みはじめる。しかしそれ以後、人間は言語という枠組み(マス目)を通してでしか世界を見ることができなくなってしまう。

理論の是非はここでは置いておこう。非現実的な夢をいつまでたっても捨てられない人間は、ラカン学派の精神科医の手にかかると「幼少期にじゅうぶんな去勢体験を経なかった」と診断されるわけである。『ハラキリヤサイ』におけるこの3人は、まさにこうした去勢体験が欠落した人間とは言えないか(親の家出というモチーフがここに重なってくる)。それゆえ彼らは、罰ゲームで自らの男性器を撃ち抜くことによって、去勢を疑似体験しようとしているのではなかろうか。「俗」の世界で生き続けるためである。実際、ゲームに敗れて病室で妻にリンゴを食べさせてもらっている「鳥居さん」は、何かふっきれたような、すっかり所帯じみた表情をしているではないか。

去勢体験を得ることができずにあとに残されたふたりは、意味もなく追いかけっこをしたり、シーソーに乗ったり、殴りあったりと、ふたりだけのゲームを続ける。そこにはもはやルールも罰ゲームもない。ふたりはあたかも、去勢年齢以前の幼児に退行してしまったかに見える。だが最後のゲームを遂行するときは静かに迫っている。ふたりきりのロシアンルーレット。ここにふたつの疑問が浮かび上がる。まず、なぜここで命を賭ける必要があるのか。第二に、なぜ自分ではなく、お互いに銃を向ける必要があるのか。

第一の疑問に対する答えは簡単だ。社会や自分を破壊して本来のあるべき姿に戻ろうとするバタイユ的な欲動は、究極的には自らの「死」に収束せざるを得ない。問題は第二の疑問である。ここではラカンの別の理論の適用を試みたい。人間は去勢体験を契機に言語の世界(象徴界)を獲得するということは先ほど述べた。では、自己像を含むイメージの世界(想像界)はいかにして獲得されるか。「鏡を見ることによって」とラカンは言う。赤ん坊は鏡に映った自分の姿を見ても、それが何だか理解できない。ところがある瞬間から「鏡に映っているのは自分だ」と直感し、その自己イメージを核にして世界全体のイメージを構築しはじめるのである。去勢体験の欠落によって象徴界を構築し損ねたふたりは、毒食らわば皿まで、ここで自らの想像界をも破壊しようと試みるのだ(ラカンによれば死とはまさに、象徴界と想像界とを破壊し、ありのままの世界(現実界)へと回帰することに他ならない)。それがあたかも、鏡に映った自分の分身を殺すかのようなイメージとしてここに表出しているのである。

ところがゲームは主人公の「ちょっと待った」の一言でさえぎられる。主人公はおそらくここで悟った。すべてはゲームにすぎない。すべては将棋盤の上でくりひろげられる出来事にすぎない。そう悟るにいたったきっかけは謎だ。「鳥居さん」の「それ貸すだけですから。あとでちゃんと返してくださいね」という言葉が彼を「俗」の世界に呼び戻したのかもしれない。そして唐突に場面は変わる。主人公がひとりでキャッチボールをしている。冒頭の使いまわしのようなシーンであるが、使いまわしであるというまさにその点が重要だ。そして一言。「やっぱり」。映画は幕を閉じる。主人公は最後にいったい何を言うつもりだったのか。もちろん「やっぱり野球にしましょう」と言おうとしていたのである。いや、あるいは「バスケにしましょう」「ゴルフにしましょう」はたまた「食事にしましょう」と言うつもりだったのかもしれない。いずれにしろ、彼が放つはずだったその言葉は「本当の自分」や「人生の意味」などの形而上学的な問いとはなんら接点をもたない、「俗」の世界に属する日常言語だったはずだ。ここに『ハラキリヤサイ』のテーマの真髄が横たわっている。

しょせん我々には限られた材料しか与えられていない。そこには崇高な目的や意味は何ひとつとして存在しない。「本当の自分」も、ここではないどこかも存在しない。目の前にころがっている「俗」でつまらない物たちが我々に与えられた材料のすべてだ。何も隠されてはいないのだ。だから我々は何ひとつとして新しいものを創造できない。ありふれた材料をひたすら拾い集め、使いまわし、組み合わせていくだけである。そしてそれこそが人生の正体なのであり、決してそれ以上でも、それ以下でもない。

最後の壁当てキャッチボールのシーンが冒頭のそれと異なっている点がひとつある。冒頭で主人公はカメラに対し水平にキャッチボールをしているのに対し、ラストでは背を向けて立っている。そして真正面に振り返って「やっぱり」とつぶやくのだ。つまりこれは我々鑑賞者に対して投げかけられた問いかけであると同時に、「木下さん」、さらには彼を演じる藤崎監督自らに対する問いかけなのである。監督はいったいどんな答えを返すのだろう。それはきっと彼の次回作の中に、何らかのかたちで姿を垣間見せるはずだ。