記憶の中の文禄堤

立ち飲みジャーナル27号

立ち飲みジャーナル27号

僕が少年時代のひとときをすごした守口市本町近辺は、いま思えば不思議な町だった。

町の中に橋が2本架かっていた。川がないのに、である。川のかわりに、橋の下を道路が走っていた。足もとを通りすぎていく車や人の流れを、橋の上からながめるのが好きだった。夕日がとてもきれいに見えた。

文禄堤。そういう名称を知ったのはずっとあとになってからである。周囲より5,6メートルは高い土手が1キロ近くにわたって伸び、町を東西に分断している。2本の陸橋は、土手をくりぬいたところに架かっていた。

僕たちはそこを「旧堤防」と呼んだ。単に「堤防」と呼ぶこともあった。実際、そこは豊臣秀吉がつくった堤防で、明治に淀川が改修されるまではすぐ横を川が流れていたらしい。もっとも、これも大人になってから知った話だ。

ここでひとつの疑問が生まれる。文禄堤が実際に堤防として機能していた時代を知る者はもはや誰もいない。僕の祖父母だって大正の生まれである。なのにいまだに「堤防」と呼ぶ。奇妙と言えば奇妙である。人は忘れても、言葉の中に過去の記憶がちゃんと息づいている。

祖父母の家は「堤防」の下にあって煙草屋を営んでおり、僕が2歳のときに死んだ曾祖父の家は「堤防」の上にあった。

文禄堤は周囲より高くなっているので、当然、階段が多い。石段のひとつを下りたところに船着場の跡がある。そこに車1台分のスペースがあって、祖父は自分の駐車場として使っていた。祖父は毎日、カートンが入ったダンボール箱を車に積みこみ、得意先へ煙草の配達に出かけていった。いま思えばたしかに、舟を漕いで物売りに出る行商人のようにも見えた。

文禄堤の北端近く、「右ならのざきみち」と書かれた石碑のある来迎坂は、母にとって少女時代の遊び場だったらしい。そして彼女の話によれば、なんとその当時はまだわずかに川の痕跡があったと言う。

来迎坂を下りたところに、幅2メートルほどの小川が流れていたらしい。察するに昭和30年頃の話だ。かなり汚れていたが、たしかに川だったという。あるいはかつての淀川の支流が当時はまだ残っていたんだろうか。確かめるすべはない。その川もいまでは埋め立てられて遊歩道になってしまい、見る影もない。

僕が高校に入った頃、長年空き家のままだった曽祖父の家を取り壊すことになった。跡地に僕らの新居が建てられた。秀吉の埋蔵金でも出てくるんじゃないか、家族でそんな冗談話をしたが、やっぱり夢物語に終わった。ともかくも僕は名実共に、文禄堤の住人となった。

友達を呼ぶのに苦労した。みんな決まって道に迷うのである。下の道を行ったり来たりするばかりで、なかなか文禄堤に上がれない。まさか自分の頭上に別の道があるなんて想像もできないようなのだ。逆に言うと、この周辺の住人たちは、町を平面でなく立体としてとらえる感覚が自然と身についている。

文禄堤に住んで気づいたことがある。幽霊話が異様に多いのだ。文禄堤の下にあった旧電電公社の女子寮跡には、交換手の霊が出るといううわさがあった。また、僕の家のすぐそばにはかつて宿屋があり、首を吊った女中の霊が出たという言い伝えまで残っている。さらに、文禄堤北端、難宗寺が建立される前にあった来迎寺(現在は守口市佐太中町に移転)には、幽霊の足跡とされる掛け軸がある。僕は必ずしも霊を信じているわけではないが、こういう古い土地には得体の知れないものが何かと集まってくるのかもしれない。

時は流れた。祖父は身体をこわし、煙草の配達をやめた。数年前から寝たきりになり、いまとなっては話を聞くこともできなくなった。

だがいつだったか、祖母と歩いていてこんなことがあった。ちょうど文禄堤の陸橋の下にさしかかったところで彼女は足を止めた。

「ツバメが・・・・・・」

曲がった腰をのばして祖母が見上げた。視線を追うとそこには鳥の巣があった。陸橋の下にへばりつくようにして、ツバメが巣をつくっていたのである。

祖母が独り言のようにつぶやいたその言葉に、僕は驚愕した。

「今年はきっと雨が少ないで。大雨の降る年にはツバメはあそこに巣をつくらへんから・・・・・・」

まさか。もはや淀川はここには存在しないのである。百年前に消えたのである。その淀川の幻影が、ツバメには見えているとでもいうのか。かつてあった川の濁流の音が、あるいは彼らにはいまでも聞こえているのだろうか。

実家を出てしばらくになる。

文禄堤をゆっくりと歩くこともなくなった。

でもときどき、ふと思い出すのである。ツバメたちは今年はやってきたんだろうか、と。