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遠吠え

 なぜこんなところにきたのだ。

 僕はいつも後になって思うのだ。夜がやってくる。眠るわけにはいかない。僕にはやることがある。だいたい、昼までベッドの中だったので眠くもない。パソコンに向かう。あるいは紙に向かう。書きかけの小説。大作だ。新人賞も夢ではない。これまでそれほどたくさん書いてきたわけではないが、確信に似た何かが僕にはある。

 僕と同じく作家志望の友人がいる。彼の作品をたまに読むのだが、どれもこれもさまになっていない。内容だのテーマだのを問題にする前に、そもそもフォルムがなっていない。どんなに人間の核心を突いた作品であってもおまえ、体裁がまるで整っていないよ。人様に読ませるからにはしっかりとした文体、計算し尽くされた場面設定のもとに書かないと駄目だ。僕はいつもそう言うのだが、あいつは決まってあいまいな表情で「へえ、そんなもんかな」と答えるだけだ。そんなもんだよ。僕は突っぱねるようにして返すが、あいつはそれでもとぼけた顔をしている。

 それに比べると僕の書くものはしっかりしている。基本的に文法が正確であるし、盛り上げるところで盛り上げ、落とすところでストンと落とす起承転結の技術もわきまえている。

 まだ日の目を見ていないのは、僕の作風にふさわしいテーマがないからだ。ただそれだけのことだ。テーマがないというのが作家にとって致命的だということはじゅうぶん承知だ。しかしそれは言わば天啓みたいなもので、向こうから降ってくるのを待つしかない。こっちから探して見つかるものではないのだ。

 ところがその天啓とやらが、ようやく僕に降ってきたのだ。一ヶ月ほど前のことだ。アパートの向かいの家に一匹の柴犬がいる。こいつが毎朝同じ時刻になると決まって吠えるのだ。

 なぜ吠える。単なる習慣か。あるいは吠えなければならない理由があるのか。飼い主を起こすために吠えているのか。会社に行っていた時は目覚まし時計のかわりになったのだが、いまじゃ迷惑以外の何物でもない。夢うつつの中でそう考えていた時、僕に天啓が降りてきたのだ。

 そうだ。犬を主人公にした小説はどうだろう。飼い主らが繰り広げる人間模様を、犬の視点から描くのだ。こいつは斬新だ。少なくとも、僕がこれまで読んだ小説ではこんな話はない。こいつはいけそうだ。僕は書き始めた。最後のボーナスをはたいて買った最新機種のパソコンに向かった。

 しかしいざ書き始めると、どうもスムーズに進まない。理由は明白だ。パソコン画面へ文字を入力した瞬間、文章から言霊が逃げていってしまうような気がするのだ。「パソコン画面は文章を殺す」。最近気に入っているフレーズだ。小説はやはり、万年筆で生の文字を原稿用紙にたたきつけながら創っていくものだ。

 だから僕は努めて手書きで物語をつづっていくことにしている。しかし何から何までコンピュータ化しているこんな時代だから、紙に書いたものであっても最終的にはパソコンに入力しなおさなければならない。いまや新人賞だってメールで応募するご時世なのだ。だから僕は、その時の気分や精神状態によってパソコンと原稿用紙を使い分ける方式をとっている。

 しかしどちらにしろ、こんな生活臭のするアパートの一室にこもって書くというのは、なかなかどうして筆が進まないものである。夜になり、あたりがシンとしてくるとなおさら気が散ってしかたがない。多くの文豪たちがそうであったように、僕にも物を書くための行きつけのバーや喫茶店を探す必要があるようだ。

 夜遅く、僕はひとり家を出る。深夜に物を書けそうな場所といえば、このあたりではひとつしかない。僕は十五分かけて近くのファミリーレストランまで歩く。小説のあらすじを考えながらだ。あまりに集中しすぎて、どこを歩いているのか一瞬わからなくなってしまうこともざらだ。

 しかし、静まり返った冷たい国道のわきに明かりを煌々と灯しながら突っ建っているその店にようやくたどりつき、重いガラス扉を開けた瞬間、僕は我に返る。果てしなく広がっていたイマジネーションの翼はとたんに萎えて固く閉ざしてしまう。そして思う。「ああ、やっぱりくるんじゃなかった」と。

 まず、店内に流れる安直なムード音楽が、僕の創作意欲の表層をサッとこそぎ落とす。『ムーンリバー』だとか『酒と薔薇の日々』だとか、ビートルズをアレンジしたインストゥルメンタルだとか、音の悪いスピーカーから流れてくるのは毒にも薬にもならない有線音楽ばかりだ。ファミリーレストランに生バンドを用意しろとはさすがの僕も言わないが、それができないならばいっそのこと低俗なポップスを流してくれたほうが気分的に楽というものだ。

 さっそく憂鬱な気分になっている僕に向かって、くたびれたアルバイトの店員がすかさず追い打ちをかける。

「いらっしゃいませ」
「おひとりですか」
「お煙草はお吸いになりますか」

 その濁った瞳には、僕に対する軽蔑の念が露骨に表れ出ているのだ。

 思いすごしなどではない。なぜなら僕は一番すみっこの席に案内され、さらに「ご注文は何になさいますか」とくる。コーヒーと僕が言うと、今度は「それではホットドリンクバーでよろしいでしょうか」とくる。

 二、三日に一度はこの店にやってくる。いつも同じ店員だ。僕を覚えていないはずがない。それなのにいつも「ホットドリンクバーでよろしいでしょうか」だ。そもそもこれは、僕がなじみの客であるかどうかということ以前の問題である。この店には「コーヒー」というメニューはなく、「ホットドリンクバー」という商品にコーヒーやら紅茶やらが含まれているのだ。であるならば、コーヒーと言えばそれは必然的にホットドリンクバーを指すのであり、あえてきくまでもないことだ。それをあえてきくとはどういうことか。いくら接客マニュアルにそう書かれているとはいえ、毎回わかりきったことを繰り返すのは僕を蔑視している証拠ではないか。

 君は、こんな深夜に店にやってくる連中はみな学も志もない俗な連中ばかりだという思いこみがあるようだ。しかし必ずしもそうではないということを君はやがて思い知ることになるだろう。それ以前に、こんなところで深夜のバイトをしている君自身こそ大した人間ではないということを自覚すべきだ。恥を知れ。

 しかしどうして深夜のファミリーレストランというのはこんなにも品のない客ばかり集まってくるのだ。あちこちで下品な笑い声や罵声が飛び交っている。鼻をつく香水の臭いや体臭、煙草のヤニ臭さでむせかえりそうだ。

 たとえば、ガラスの仕切りをはさんだ隣の席では二十そこそこの子どもっぽい女が、髪を茶色く染めた気取った男の前でビーフドリアを食べている。男が吐き捨てるようにして何か言うたびに女は甘えた声を出す。向かいの席では空になったグラスを前に水商売風の女がふたり、はがれかけた化粧を執拗になおしている。斜め前の席では、「ここまで何でやってきたんですか、親に買ってもらったベンツでですか、いやウソでしょう、三輪車に乗ってきたんじゃないんですか」と言いたくなるような若いガキどもが五、六人、大声でまくしたてては時々ドッと笑い声をあげる。

 だが僕は腹を決める。僕は小説を書くためにここにやってきた。君たちの精神の堕落ぶりには辟易するが、それもまた僕の個人的偏見にすぎないのであり、だから君たちにとやかく言うつもりはない。僕は僕だ。ただひたすら小説を書けばいい。

 そう思う時、僕はきっと孤高な表情をしているに違いない。僕は上着のポケットから煙草を取り出してくわえ、ゆっくりと火をつける。コーヒーをブラックのまま半分ほど飲むと、カバンを開けて原稿用紙をテーブルに広げる。僕は愛用の万年筆を手にとる。その瞬間、この狭いレストランの空気が一瞬固まるのを感じる。

 客は表面上は変わらずどうでもいい会話を続けて平静を装っている。しかし彼らは明らかに僕に注目しているのだ。客も店員も、こんな文学や教養とは無縁のレストランで突然原稿用紙を広げて文章をつづり始めた僕を、奇異と驚きの目で見つめているのだ。

 無理もない。君たちには小説を創り上げていく崇高な喜びなどわかるまい。そもそもファミリーレストランで文章を書こうなんて思いもつかないだろう。おそらくろくに文字を書いたこともないに違いない。どこか遠い目をした男がふらりとやってきたかと思うと、原稿用紙を広げてペンを走らせている。奇妙に映って当然だろう。

 馬鹿にしたければするがいい。それも君たちの立場として僕は尊重する。しかしそうした偏見が君たちの無学さに根ざしているということを思い知れ。僕が君たちの立場を尊重するように、君たちも僕の志を尊重しろ。馬鹿にするのは大いにけっこうだ。だが君たちはいつの日か思い知ることになるだろう。しかしその時はもう手遅れなのだ。なぜなら僕はもうこんな辺鄙なレストランにはこなくなっているだろうから。文豪たちが集うバーの片隅でバーボンのロックをすすりながら、僕は君たちのことを懐かしく思い出し、そしてすぐに忘れてしまうだろうから。

 僕は書き始めた。いったん書き始めたら場所など関係ない。僕は自分がどこにいるのかを忘れる。僕の心は、広大なイマジネーションの海を漂い始める。ペンが走る。

 ところがそれをさえぎろうとするものがある。携帯電話の音だ。隣の席で例の若い女が携帯の音を鳴らしている。僕は思わずペンを止める。電話がかかってきたというのならばまだ許せる。ところがそうではない。女は自分の携帯に入っている数々のメロディーを次から次へと選択しては鳴らし、これは誰それの何とかという曲よ、と順番に男に聴かせているのだ。それに対し男は、うんうんとじゃまくさそうに返事を返すだけだ。

 少女よ。君はまだ子どもだ。この世の何たるかを君はまだ何ひとつ知らない。君がつきあっているその男を見れば一目瞭然だ。そんなつまらない男と一緒にいること自体が、君がまだ人間を見抜く眼力も知恵も身につけていない幼子であることの何よりの証拠である。もちろん僕は君の立場を尊重する。どんなに稚拙であれ無意味であれ、君がそれを自分の生き方として選んだのであれば僕は何の文句も言わない。だが僕の行く手をさえぎるのだけはやめてくれないか。

 しかし僕は、ただ黙々と原稿用紙に向かい続ける。それが僕の義務であり使命であるような気すらしているのだ。周囲で何が起ころうともひたすら自分の意志を原稿用紙に刻み続ける僕の孤高さを見よ。少女よ、僕の横顔を見て学べ。そこから人間が真に目指すべきものは何かを学びとるのだ。そこに君が救われる唯一の希望がある。

 すると今度は、斜め前の席にすわっているガキどもがワッと騒ぎ出した。悪ふざけがエスカレートして、テーブルでちょっとしたこづき合いが始まっている。そのうちの何人かが時々怪訝な目で僕を一瞥するが、すぐにもとの悪ふざけに戻る。

 きっと連中は僕のことが気になってしかたがないのだ。それを悟られたくないから、あのような悪ふざけをして無関心を装っているのだ。

 ふと思う。もしもここで僕が立ち上がり、連中の席へとツカツカと歩み寄っていったならば、連中はどんな反応を示すだろうか。連中のテーブルにつき、いきなり文学についてとうとうと語り出したならば、どんな顔をするだろうか。

 ひょっとしたら彼らは僕にそれを期待しているのかもしれない。彼らは魂の行き場をなくして悶々としている。僕があいつらに文学の何たるかを語り出せば、その瞳はとたんに生気に満ちあふれ、僕の話を熱心に聞き出すかもしれない。

 いや、しかしそれはくだらない想像だ。そんなことは現実にはあり得ない。あいつらは僕の話を軽くあしらい、馬鹿にし、再びもとの悪ふざけに戻っていくだろう。あんな若造らに何を話しても無駄だ。若造と言っても、僕とは五歳くらいしか離れていないだろう。しかしそこには世代の違い以上の隔たりがある。志の問題だ。かつて二十世紀初頭のフランスには、サロンと呼ばれる場所があった。そこでは画家や作家や思想家が毎晩集い、初めて出会った者同士がジャンルを超えて芸術について熱く語り合った。しかしそれをこの日本で期待するのは無茶な話だ。こんなファミリーレストランではなおさらだ。フランスでサロンが成立し得た理由は、彼らがみな崇高な志を胸に抱いていたからだ。志がない連中にいくら話しても無駄だ。マネキン人形に話しかけるのと同じだ。

 その時、僕の頭上で声がした。

「よう」

 連中のひとりが話しかけてきたのかもしれない。僕はふと思った。しかし顔を上げると、そこに立っているのは僕がいつも批判してやっている例の作家志望の友人ではないか。

「誰かと思えば。偶然だな。何してるんだ?」

 あいつは言った。買ったばかりの煙草の箱を右手でもてあそんでいた。小説を書いてるんだ。ぶっきらぼうに答えると、

「いま面白い人と会ってるんだ。おまえもいっしょに話を聞かないか」

 そう言い残してあいつは窓際の席へと歩いていった。見ると、三十代半ばの小太りの男がすわっている。誰だ。興味はあった。きっと小説がらみの知人だろう。小説についての僕の意見が聞きたいというのであればいつでも聞かせてやろう。

 僕は自分の席を立った。窓際のテーブルに行き、あいつの隣にすわった。僕の斜め前で小太りの男の顔がゆがんでいた。笑っているのだ。

「紹介するよ。こちら出版社の編集部員をされている渡辺さん。渡辺さん、こいつは僕の作家友達でして」

 あいつの口調はいつになくていねいだった。調子のいいやつだ。そんなに媚びへつらう必要はない。ヘドが出る。

 小太りの男は、ゆがんだ顔をさらにゆがめながら白い名刺を取り出した。

「出版社というほど立派な会社ではないんですが。印刷所に毛が生えた程度の零細企業ですよ」

 名刺を見ると、聞いたことのない出版社の名前が印刷されている。

 あいつは話し出した。

「知り合いに紹介してもらったんだ。俺たちが作った同人誌があるだろ?」

 同人誌?

「ほら、このまえみんなで作ったやつだよ」

 ああ、あれか。

 僕は思い出した。半年ほど前、あいつが仲間内の小説を集めて本にしたいと持ちかけてきた。金を集めて五十部ほど自費出版したいと言う。僕には興味がなかった。たったの五十部作ったところでいったい何になる? 単なる身内の自己満足に終わるのは目に見えている。だがあいつが是非とも作品を寄稿してくれとせがむので、しかたなく書いてやったのだ。

「あれをさ、渡辺さんにお見せしたらひどく気に入ってくださったんだよ」
「ええ、なかなか興味深かったですよ」

 小太りの男は言った。

「これはと思う作品もいくつかありましたし、第一、企画としてはなかなか面白い試みだと思いました」

 いったい何を指して面白いと言っているのだろう。あの同人誌は僕も一部もらったが、そもそもろくに目を通していない。

「それでさ、渡辺さんがあれと同じ形式で定期的に同人誌を出版してくださるとおっしゃってるんだ」

 何……。出版?

「ええ、文学好きの一部の読者層にターゲットをしぼれば、ああいう同人誌のようなものも商業ベースに乗るんではないかと。まあウチは小さな会社だからそうたくさんは刷れませんけどね、提携している全国の書店に年四回くらいのペースで五千部ずつ販売させていただけないかと考えてるんです」

 五千部……。

「でさ、おまえもできたら作品を提供してくれないかと思って」

 あいつが言った。僕はあいつを見ずに、小太りの男のほうに顔を向けた。
 ええ、僕ももちろんご協力させていただきますよ。可能な限り。この前の同人誌に掲載したような短編小説でいいんですね。ええ、やりましょう。お手伝いしますよ。

 僕は答えた。しかしこういう時に限ってどうして早口になってしまうのだろう。早口なくせに口がうまく回らない。しどろもどろだ。だがすきを見せてはいけない。媚びを売るようなまねだけはしたくない。出版社の人間だからと言ってあいつみたいにヘコヘコするのはごめんだ。あいつはおそらく自身がないのだ。僕は自分の才能を信じている。あいつみたいに低姿勢になる必要はない。自分の才能を信じている以上、プライド高き一匹狼であれ。

 だが小太りの男は僕の目をチラリと見ると、さっきまでとは微妙に違う低いトーンできいてきた。

「ええと……あなたも小説を書かれてるんですか」

 この男何を言ってるんだ。あの同人誌に僕の作品も掲載しているではないか。目を通したはずだ。

「んー、どんな小説でしたっけ?」

 僕のテンションは下がり始めた。僕の小説が気に入ったのではなければ、いったい何が気に入ったのだ? どこに目をつけているのだ。この男、あるいは大したやつではないのかもしれない。教えるのもしゃくなので黙っていると、男はグラスの水を口に運んで静かに飲み、

「いまはどんな作品を書かれてるんですか」
 いまですか。犬を主人公にして人間模様を描いた小説を書いてるところですよ。
「はあ。あれですか、吾輩は猫である、みたいな感じのやつですか」

 吾輩は猫である? そういえばそんな小説があった。夏目漱石だ。読んだことはない。だがいっしょにするな。僕は夏目漱石は嫌いだ。

「じゃまあ、完成したらまた読ませていただければ」

 男の顔はずっとゆがんでいた。しかし目だけが笑っていなかった。男はあいつのほうに向き直り、にこやかな口調で別の話を始めた。あいつの小説の話だ。

 僕は確信した。こいつは大したやつじゃない。文学のことなど髪の毛の頭ほども理解していないに違いない。そうでなければ文学の知識をただ記憶しているだけのつまらぬ教養主義者だ。ただの商売人だ。無知な小説家のたまごを食い物にしているハイエナだ。そして僕の友人がいままさにハイエナの餌食になろうとしている。みじめなやつだ。

 僕は立ち上がった。

「もう行くのか? そうか。この件についてはまた考えておいてくれ」

 僕を見上げてあいつは言った。見るとあいつは、僕を哀れむような、申し訳なさそうな目をして笑っていた。僕は思わず吹き出しそうになった。こいつ何か勘違いしているようだ。哀れむべきは僕ではなく、君のほうなのだ。うぬぼれるな。君の作家としての魂の灯がいままさに吹き消されようとしているのだ。自分がいまいったいどういう状況に置かれているのかをもっと自覚すべきだ。もっとも、いまさらそんなことを言っても手遅れだろうが。

 僕はきいてやった。

 おまえが作ろうとしている同人誌のコンセプトは何だ?

「コンセプト?」

 そうだ。同人誌の主軸をなすコンセプトだ。言いかえるならば雑誌としてのフォルムだ。それがしっかりしていないとどんなに中身が良くったって駄目だ。一流とは言えない。体裁をしっかりと整えた雑誌にして初めて、僕も作品を提供する意義があるというものだ。まあそれを期待して僕も何か書きためておこう。渡辺さん、きょうはどうもありがとうございました。僕の小説を掲載する際にはまた色々とご相談させていただきます。それでは。

 僕はスラスラと述べた。我ながら威厳高く振る舞えたと思った。僕は荷物をまとめると、さっさとファミリーレストランを後にした。僕の後ろ姿を見て学べ。小説家のプライドとはこういうものだ。

 だが、何か大切なものをなくしてしまったという喪失感は消えない。僕はたったいま、ひとりの友人をなくしたのだ。友人だと思っていた男が、見る見るうちにレストランの低俗な客たちと同化して見分けがつかなくなった。ひとりの男の魂が凡庸な一般大衆の沼の中へと飲み込まれていくのを目の当たりにした。あいつは小説家としての誇りを捨て、商業主義に魂を売ってしまったのだ。いや、僕は君の同人誌とやらに小説を提供しないとはひとことも言っていない。お呼びがかかればいくらでも提供してやろう。あの渡辺とかいう男に僕の作品の価値が理解できれば、の話だが。だが僕は小説家としての、いや人間としてのプライドだけは決して捨てない。僕は低俗な愚衆の泥沼の中に咲く一輪の薔薇の花であり続けよう。汚れた手で泥だらけにされても静かに咲き続ける真紅の薔薇の花であり続けよう。

 右のまぶたがひきつり出して、なかなか治まらない。

 意識すればするほど力を込めてまばたきをしてしまう。レストランを出てからますますひどくなったようだ。まぶたどころか右のほほ全体がひきつり出した。心の病か。神経症か。どうでも好きなように呼んでくれ。笑いたければ笑うがいい。僕の知ったことではない。この病が僕の誇りの高さゆえに引き起こされたというのであれば、僕はこいつを堂々と背負い続けよう。なぜならこれは、僕が真の小説家たることのれっきとした証明だからだ。僕の顔を見るがいい。僕は孤高な一匹狼なのだ。

 静まり返ったアパートの部屋に帰り、パソコンの電源を入れる。

 パソコンのファンの音が響き、やがてディスプレイの光が真っ暗な部屋を照らし出す。そしてメールが一通きていることを僕に知らせる。

「こんにちは、元気にやっていますか。お仕事のほうはうまくいっていますか」

 まぶたのひきつりはますますひどくなる。僕は思わず右目を押さえる。

 電話代が払えない。このメールもいずれは届かなくなる。

 もうすぐ夜明けだ。


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