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ひきこもりドキュメント「ひきこもりっくす」

1.ひきこもるの巻

 蛍光灯が騒いでいる。壁の中を何かがはいずりまわっている。ベニヤのドアが勝手に開き、そして乱暴にバタンと閉まる。しばらくすると再び、きしんだ音をたててゆっくりと開く。

 夢か?

 そう思った瞬間、耳ざわりな音は消えた。代わりに遠くでテレビが聞こえた。タレントの悪ふざけと観客の馬鹿笑いの声。僕はゆっくりと目を開けた。僕の身体は、まるで峡谷のように波打ったシミだらけの布団のあいだに、いびつな体勢でねじこまれていた。

 目の前には、やはり巨大な岩山のように見える自分の腕がごろりと転がっていた。腕の向こうにテレビが見えた。ほこりをかぶった韓国製のブラウン管の中では、ミニチュアサイズのタレントがめまぐるしく動き回っていた。

 『笑っていいとも』だ、と僕は思った。同時に、どうして僕はまだ気が狂っていないんだろう、と思う。こんなに苦しんでいるのに、こんなにも耐え切れないのに、どうして僕はまだ正気でいる? そもそもどうして目をさました? ともかく、もはやまっとうな人間でなくなってしまった僕の一日はこうしてまた始まってしまうのだ。

 僕がねじこまれている布団のまわりには、吸殻だらけの灰皿やコンビ二弁当の食べかす、丸めたティッシュペーパーや何層にも積まれた文庫本、コーラの空き缶などが同心円状に散乱している。アパートの大家さんにしつこく言われて一枚だけ開けた雨戸からは、残酷な陽射しがまるで嫌がらせのように、ゴミの上に四角い光の輪郭を落としている。

 気を抜くひまもなく、僕は全身を硬直させる。どこかで声が聞こえたような気がしたからだ。テレビではなく、現実の声だ。僕は手探りでリモコンを探した。テレビのボリュームを小さくすると、敷き布団をめくり、茶ばんだ畳に恐る恐る耳をあてた。その声は畳の下から聞こえていた。1階には小さな散髪屋がある。客がやって来る週に2、3日だけ店は開くのだ。

 僕は意識を集中する。吸い込まれそうなほど集中する。声の主はふたり。店のおばちゃんと客か。くぐもった声で何か話している。何の話だ? 冷や汗が流れる。何の話だ!? まさか僕の悪口を言っているのではあるまいか。

 2階にいることがばれてしまったか。ねえ奥さん聞いてくださいよ2階の学生。一日中部屋に閉じこもって学校へも行かずに。親の仕送りを食いつぶしてそのくせ家賃も滞納して。異臭ただようゴミだめの中に生息してゴキブリみたいに。ほら耳をすますと。男くさい成年男子が天井裏をはいずりまわる音がする。一度保健所か精神病院に通報してみたらどうかしら。ねえ。僕はいよいよ耳を畳にべったりと貼りつける。よく聞き取れない。聞き取れないまま、そのくぐもった声はいやらしい馬鹿笑いに変わっている。またしても馬鹿笑い。

 我にかえるといつのまにか夕刻。僕は再度眠ってしまったんだろうか。締め切ったままの西側の雨戸からは赤黒い夕日がまるでミミズのように細くなって畳に伸びている。僕はようやく身体を起こし、ボットン便所へ向かう。

 急速に夜が訪れる。僕は再び布団の中。テレビのボリュームを上げてバラエティ番組を眺め続ける。カラフルに動く映像と派手な音楽。コメディアンやアイドルやニュースキャスターのロボットみたいな作り笑い。飛び交う奇声。いま僕はいったいどんな顔をしているんだろう?

 番組もいつかは終わる。砂嵐とノイズ音が真っ暗な部屋の中を満たしても僕はテレビを消そうとはしない。消せなかった。なんでもいい、何かで五感を満たしていなければ恐怖で変になりそうだった。気を許せなかった。少しでもすきを見せればあいつに取って食われる。そいつが僕の背後をずるずるとひきずるような音をたてて歩いているような気がした。そいつは『時間』だ。気を許すな。気を許すと食われるぞ。とにかくしがみついてろ。過去と未来の間に押し込まれながらも、とにかく『いま』という瞬間にしがみついて離れるな。

 心のどこかで馬鹿らしい、と思う。僕はいったい何に抵抗しようとしているのだ。恐れるものは何もない、自分で勝手に作り出した幻影にひとりでおびえているだけではないか。それに僕は、いっそのこと狂ってしまいたいと思ったのではなかったか。

 でも僕は狂えなかった。僕は狂気の渦の入口あたりでつっかえていた。何もかもおしまいにしたかった、手を離せばすぐに楽になれるような気がした。でもどうしても最後の一歩が踏み出せないのだ。なぜだ? なぜ僕は狂えない? どうして僕はいまだにマトモなんだ? いや、その表現は正確ではないだろう。僕は本当はこう叫びたかったのだ。

 「この無限の世界の中で、どうしてオレだけが、マトモなんだ?」

 聞く者も誰も存在しない虚無の闇に向かって。

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