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ひきこもりドキュメント「ひきこもりっくす」

15.酒に飲まれるの巻

 ゴールデンウィークは事件もハプニングも起こらず、ただ平穏にすぎ去った。休みがあけて大学が再開しても同じだった。まるで高性能のベルトコンベアーに乗せられているみたいに、何もない日々が一定のスピードで音もなく通りすぎていく。

 だらけた気分だった。馬鹿な学生どもといっしょにいても、以前みたいに「この生けるシカバネめが!」と怒れることも少なくなった。教授に対して「なにを!」と反発する気分にもなれない。大学の雰囲気になじんできたのか。悪い意味で。無気力学生どもの悪影響にさらされ続けたせいか。あるいは単純にあきてきただけなのか。

 目標を見失ったわけではなかった。僕は偉大な科学者になり、宇宙の真理を究明するのだ。人間という生物の存在理由を解き明かすのだ。そして人類の歴史に革命をもたらすのだ。

 だが目標と現実とはもはや完全に断絶していた。就職のことばかり口うるさく言う大学教授のもと、ゲームとアニメのことしか興味がない学生どもといっしょにいくら勉強しても無駄だ。せいぜい、町工場の整備士か零細企業の技術者になるのが関の山だ。

 じゃあどうすればいいのか。僕には見当もつかなかった。ただひたすら、アパートで独自の研究を続けていた。でもその研究というのが、どれも珍発明の域を出ないものばかりで、歴史に名を残す偉大な科学者の道へとつながっていく見通しはまったくなかった。

 キャンパスのベンチでひとり煙草をふかしながら考える。――あるいは五月病かもしれないな。尾崎豊も死んだ。それで最近、ちょっとセンチメンタルになっているのかもしれない――。すると心の奥底で小さな悪魔が「いいぞ」とほくそ笑んだ。科学者になる夢と矛盾するようだが、僕は「落ちぶれる」ことに対してもあこがれていた。そう、まるで四畳半フォークみたいに。かぐや姫の歌みたいに。貧乏な暮らしと赤い手ぬぐい巻いて銭湯に通う日々、心には虚無感の風が吹きすさび、胸が引き裂かれるような刹那的な恋そして別れ。どっぷりはまるつもりはなかったが、安全なフェンスの向こう側に立って絶望の深淵をひやかし半分のぞきこんでみたくなったのだ。

 そうだ。こんな世の中にもともと頼れるものなど何ひとつない、それを一番よくわかっているのは僕自身じゃないか。頼るな。期待するな。わき目もふらずに我が道をゆけ。それが堕落への道であったとしてもおじけづくな。いや、我が道を行くからこそ僕は堕落していくのだ。レールの上を進むことしかできない連中には、堕落する自由すら存在しない。

 このアイデアに僕は酔った。そして、どうすればかっこうよく落ちぶれることができるかを考えはじめた。

 僕は酒飲みになろうと思った。入学まもないこともあって飲むチャンスはいくらでもあった。理工学部の連中ともたびたび飲みにいった。元来僕は、ビールをグラス半分飲んだだけで青くなってトイレに駆けこむような男である。そんな僕が最初から日本酒でガンガンとばした。哀愁を漂わせてしっとりと酔うつもりが、僕の身体は予想外の反応を示した。身体が暴れ出すのだ。相手が誰であろうと容赦ない。飛びかかり、ヘッドロックをかけ、膝蹴りを入れる。笑顔を浮かべながら。これはタチが悪い。そして気がつくと僕はテーブルに突っ伏して深い眠りに落ちているのだった。

 だが上には上がいる。だいたいみんな18、19の若造だ。限度を知らない。いっしょに飲んでいる連中が嘔吐する場面に僕は何度となく遭遇した。「うっ!」と苦痛に顔をゆがめながら吐いてくれるならまだしも、平然と「このまえのアレねぇ」と世間話をしているまさにそのときに、微笑んでいる口もとから吐しゃ物があふれ出し、テーブルにしたたり落ちるのである。その姿は、お経を唱え生きながらミイラになった即身仏に相通じるものがあり、僕は思わず手を合わせたくなった。例のチンメ氏は、あるときお得意のダチョウ倶楽部のモノマネをとなりの見ず知らずのテーブルで披露している最中に吐きながら倒れた。連絡を受け、京都で呉服屋を営んでいる両親がとんできた。救急車もやってきた。結局チンメは一命を取り留めたのであるが、その翌週も彼はカラオケボックスで性懲りもなく吐いていた。

 ダメだ、と僕は我にかえる。僕が求めているのはこんな乱痴気騒ぎじゃない。もっと大人のアルコールをたしなみたいのだ。僕はひとりで夜の河原町にでかける。僕があこがれる酒の飲み方とは、裏町の片隅に行きつけのバーなるものがあり、無口なマスターとやはり無口な常連客がいて、店内に流れるブルージーなジャズを聴きながら、僕はウイスキーをちびちびやりながらひとり人生を語る、というものだった。そんなイメージにぴったりの店はないものかと探しにでかけたのである。しかし僕は大阪という都会育ちのはずなのに、まるで田舎から出てきたばかりのイモ青年のごとくネオンに目がくらみ、先斗町から木屋町あたりを肩をすぼませおびえながらさまよい歩き、酔っ払いにからまれやしないか、ぼったくられやしないかと気に病むばかりで、結局どの店にも入れずじまいでアパートに帰るのだった。

 僕は苦渋の選択をした。バーに行けないならばひとりで飲むしかない。アパートにこもって酔いどれながらひとり悲しくギターをつま弾こう。そして悲しい歌をつくるのだ。

 僕は酒屋にでかけた。背後に店主の視線を感じながら陳列棚を物色する。何を買おう。ダンディに飲むならやはり「バーボン」だろう。でもいくら探してもバーボンが見つからない。何気なく手にしたアーリータイムズのラベルを読むと、そこには小さな文字で「バーボンウイスキー」と書いてある。そうか、バーボンはウイスキーの別名なのか。

 僕はさっそくアパートに帰って飲みはじめた。しかしどうしたことだろう、まったく酔えないのだ。「だんだん酒がまわってきたような気がするぞ」と思った次の瞬間、意識がなくなってしまう。話し相手がいないと、酔った自分を認識するまえに僕は眠りについてしまうのだ。

 きっと夜に飲むから寝てしまうのだ。僕は朝、大学に行くまえに飲むことにした。すると今度は大学にたどりつけない。電車の中で眠りこけ、気がつけばそこは滋賀県の奥地、路線の終点まで行ってしまっている。

 僕はひとりで飲むことはあきらめてしまった。ただ、毎朝アパートを出る直前、玄関先でビンのキャップに半分ほどバーボンを注ぎ、ひとなめしてから大学へ向かうことにした。こうして酒のにおいだけでもただよわせておけば、朝まで飲み歩いていた堕落学生に見えるかもしれない。最初はなんだってかたちから入るのだ。

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