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ひきこもりドキュメント「ひきこもりっくす」

16.太宰を止められるの巻

 もっとクールかつ効果的に落ちぶれていく方法はないものか。僕は堕落したかった、そして堕落した自分に酔いたかった。ブルーな気分のときにあえて悲しい曲を聴いてどっぷりはまろうとするように。僕は自分の中途半端にだらけたムードを増幅して酔わせてくれる装置をさがしていた。

 そこで僕は「文学」を読みはじめた。僕が読むのはこれまでドキュメンタリーや専門書、SF小説ばかりで、文学小説はあまり読まなかった。どうも肌に合わないのである。だるいのだ。僕自身はときどき小説のまねごとみたいなものを書いていたが、その理由もこのあたりにある。逆説的だが、しっくりとくる面白い小説がないから、自分で書いてみる気になったのだ。

 しかし堕落するからには、文学小説はやはり避けて通れない必須アイテムだろう。僕は本屋にでかけた。文学といえば言うまでもなく太宰治だろう。そして絶望感にどっぷり浸るならやっぱり「人間失格」だ。僕は文庫本で「人間失格」を買い、アパートに帰って読みはじめた。まるで親に隠れてポルノ雑誌を盗み読みするような、蠱惑的なときめきがあった。

  太宰治にそこまで期待したのにはわけがある。

 中学生の頃、夏休みに宿題がでた。定番の読書感想文。課題図書リストから1冊選んで読まなければならない。僕は太宰治の「人間失格」を選んだ。理由は単純で、課題図書の中で一番うすくて早く読めそうだったからだ。

 ところが、いざ読みはじめようとしたところでストップがかかった。

「太宰治は読むな」

 父親だった。本を読みなさいといつも口うるさい父親がそんなことを言い出したので僕は驚き、彼の顔を呆然と見つめた。

「いいか、太宰は読むなよ。おまえみたいなやつは特に読んだらあかん。とり憑かれて抜け出せなくなるぞ。わしにはわかる、おまえにはそういう素質がある。太宰はやめて武者小路実篤とか明るいものを読みなさい」

 父親の横で、母親がやはり真剣な表情をしてうんうんとうなずいていた。僕は断念した。ただでさえうんざりしている宿題のことで親の反感を買いたくはなかった。かわりに、以前に読んだことのある山本有三の「路傍の石」で感想文を書いた。めぐまれない家庭に育った少年が成長していく過程を描いたおめでたい教養小説だ。

 だがこの件で太宰治の名前は、正体不明のアンチヒーローとして僕の胸に刻みこまれた。「おまえには素質がある」という、ほめているのかけなしているのかわからない父の発言も心のどこかにひっかかっていた。だから文学を読もうと思い立ったそのとき、「文学といえば太宰治」と、僕はまるでパブロフの犬みたいにわかりやすく反応したのだ。

「恥の多い生涯を送って来ました」

 「人間失格」は、主人公のそんな独白ではじまっていた。金持ちのぼんぼん。でも人間の生活、他人の心というものがどうにもリアルに感じられず、いつもおびえながら暮らしている。そこで主人公は、道化者になるというワザを身につける。家庭でも学校でも24時間365日、アホでひょうきんでチャーミングなキャラを演じ続け、自分の居場所を確保しようとする。

 だがやがて大人になり、彼の人生はゆるやかに崩壊しはじめる。学校はサボりがちになり、酒と女をおぼえ、心中未遂をやらかし、親の仕送りはストップ、マンガ家の仕事もいまいち、というかそもそも仕事に没頭するわけでもなく、妻を他人に犯され、クスリにおぼれ、ついには田舎の温泉地で廃人みたいな生活をすることになる。そして最後の決めセリフがこれ。「いまは自分には、幸福も不幸もありません。ただ、一さいは過ぎて行きます」……。

 なんじゃこりゃ。

 僕は思わず声に出して言った。なんじゃこりゃ。どこか肝心な箇所を読み落としたのか? 僕の読み方がまちがっているのか? ひょっとしたらかんちがいで同名のちがう本を買ってしまったのかとも思ったが、まさかそんなはずもない。あるいは単に僕に理解力がないだけなのか?

 僕はとり憑かれて抜け出せなくなるどころか、「人間失格」を読み終えても何の衝撃も感じなかった。だいたい落ちぶれかたが平凡すぎる。妻を寝取られるとか薬物中毒になるとか、そのへんの週刊誌にゴロゴロころがっていそうな話ではないか。もっとたとえば大量殺人を犯すとか銀行強盗になって逃げ回るとか、そういう展開だったらよかったんだけど。

 主人公だって平凡だ。世の中がわからない、他人が理解できない、悲壮ぶってくどくどと語っているけれど、人間なら誰だってそうじゃないのか。誰だって他の人間を理解できない、そう思っているんじゃないのか。現に僕だってそうだ、大学のアホどもに囲まれながら毎日のようにそう思っているぞ。

 だからいくら読み進めても一凡人が書いた日記を読んでいるような気分で、なんの目新しさも感じなかった。父の予言ははずれた。せっかく絶望に首までひたれると思っていたのに、期待して損した。僕は小説を畳の上に放り出した。「人間失格」はすぐにゴミや洗濯物の山にまぎれて見えなくなり、同時に僕の記憶からも忘れ去られた。

  そうこうしているうちに、僕は「絶望」しているどころじゃなくなってきた。

 もっと現実的な問題が目の前にせまっていたからである。ふと気がつくと、まだ5月もなかばだというのに親の仕送りはほとんど底をつきかけていた。

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